fxは武器なので、お金の使い方が肝。
fxで稼げるようになったら弟子を取って育ててみたり、コミュニティを持ってみたり、フォロワーを増やしてみたり、自分の手法だ!と名付けてみたり、初心者はこれだからイカン、と人に砂をかけてみたり。
どうも思うのである。幸せなのかい?って。そうすると、結局持っているエネルギーをお金だけに変えてハッピー!というよりも、やっぱり共感できる仲間とともに「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」っつーことで酒でも飲んだり、近況やら「価値ってなんだ?」「経済ってなんだ?」「最近発見したこと」みたいな話をしてみたりして、ときには焚き火を囲んだりして、寿司やら囲んで定期的に会えるなら、私はそれだけで十分に生きていけると思うわけです。
例えば全てを捨ててFXで稼げるようになったら解決するわけじゃなし、このあたりは飽くなき挑戦が必要だと思うわけで。
「背負ってるものの違い」
なんつーかこれなんだと思う。
トレーダーってある意味でさ、勝負師なわけなんだよね。で、巷にいうような、人のために云々苦労するみたいな労働してないわけさ。いやしてるんだけどさ。資本主義オブ資本主義がつくった仕事なんだよね。昔のシャーマンみたいなもんだ。流動性高めるお仕事っていうか。ある程度一定数必要なわけだ。金融のエコシステムに住まう動物で。
トレーダーとして生きれるって、努力だけでなんとかなる世界ちゃうんよ。インターネットすらなかったら?元手すら満足に稼げないような国だったら?リテラシーも必要だし、ある程度恵まれた国に生まれなかったらなれない職業なんだよね。でも、誰かがやる必要がある。世の中の仕事って全部そう。誰かがやる必要がある。だから仕事になっている。
いうたら、貨幣や物価、地政学的に安定している中で生きられる。んでもって投資家、金が金を増やす仕組みみたいなものは、結構資本主義のバグだと思ってるところがあって。その中でようやく成り立つわけだ。
だから、いったら、これは僭越なことだけど、よいお金にして社会に返す必要があると思うわけだ。「逆マネーロンダリング」みたいなもの。いや違うか。優良版マネーロンダリングか。市場から得たお金を、直接誰かに流せるわけじゃん。アメリカでいう寄付だよね。お金ってのは投票券だ。いい、と思ったものにお金を払う。時間を使う。だからゆめゆめ、「見る目がある」と思っている人は、力を持ち、権力を持ち、少なくとも小さくとも、良い経済圏を(エネルギー循環的な意味で)つくる使命を背負っている、と言っても良いと思う。
良い人を応援する。いい仕事をしてくれた人におもてなす。何かあったときに助ける。店員さんに丁寧に振る舞うように、ありがとう、と声にするように。
自分が相場を張っているのは、資本主義、という商品に投資していることに他ならない。資本主義が加熱するほど、投資やお金の行き来が民主化するほど、そういう「飛び道具としての投票」が行われるわけで、その投票券をめぐるすったもんだも出てくるわけで。
自分の立ち位置としては「インバース資本主義」だから、未来を見るのなら、人間の精神が、より高次元に登っていけるような、そういう世界が先にあって、優秀さの目を出す資本主義も、皆平等であるという民主主義も、しばしば失敗がつきものである社会主義も、全ては行く先、人間の自然との調和と、よりフラットで聡明な世界のための手段なんだろうと、そんなふうに思っていて、だけど今の時代は違うから、それならいっそ最も抽象度の高い資本主義の世界で、アーティスティックに、昔、剣術の型を極めた人間がいたように、xx道、という道が人生の道へとつながっているように、いつぞや銃という新たな兵器が現れて、剣が主流の時代が終わるまで、剣を片手に時代を共にしたいと思った。自分の信念に対するリスクヘッジなわけだ。虎穴に入らずんば虎子を得ず。そんなわけである。
お金はエネルギーの1つであって、感情も情報もエネルギー。時間とか物理空間とか、それこそH2O分子のごとく雨から雲から川から植物から動物にまで循環するように、この世界、いやこの宇宙は何等家の物質で満たされている。
「Happiness only be shared with someone」だっけな。誰かと分かち合うことでのみ、幸せは実現するっていう。Into the wild って映画の中で主人公が残してた。
トレーダーってものは、人の理解できない領域まで行って、むしろ理解(見て確認、誰でもできる、持っている感覚ではない)からこそ、優位性があるわけだよね。
このしごとは、良いエントリーだね!と褒められることもないし、金額にしてしまえば多いか少ないかだけの、連続性のないペッタンコな意味になってしまう。トレーダー同士は言葉の定義や人生観、勝負感、拠り所にする場所、目線、それが違うし、相場は自分を写す鏡だから、一見同じ言葉を使って喋っているようでも、分かり合いづらいことも多い。
だから人間関係的に「よくやった!」とか「ありがとう!」とか言われるもんでもないわけである。
しかし人間には必要らしい、ということなのである。さて困ったなのである。
そういう意味では、普通の仕事やサラリーマンはお金の使い道まで丁寧に用意されている。たまに「どう考えても足りない」というバグが発生していて、これは教育格差や分断の問題となっているようだけど、基本的には「これに使えば幸せですよ」という社会的なレッテルを張ってもらったブランド品とか有名なものとか話題のものとか、そういうものがあるわけだ。
周りからどういわれたって「いや、私は幸せなんですよ」とか「次はこれをやろう」みたいなことがどんどんつながること、「輪を広げていける」ことがやっぱり大事なのだと思うよね。
相場師として自立したとしても、こういう「価値の再定義」がなってないと、あれ?そこそこの給料でそこそこの仲間と良い仕事した方が良かったっけ?ってなるわけだ。お金に色を付ける、お金の使い方がわかっている、生き金死に金を知っている、というのはなかなかあることではなくて人と付き合ううちに学ぶものだし、人とともに苦労していない、とか、そういうのは、相場師としては別に確保しなくてはならない、人生の柱の1つだ。だから「xxxx稼ぐトレーダーです」といって近づいて来る人間が増える前に、いかに素の自分力を上げておくかとか、会社で働いているとか、苦労するとか、人間としての自分をどう確保しておくか、みたいなことは、実は重要だったりするんだよね。あながちファストにお金でいっときの解決を図れるサービスがたくさんあるばっかりに、穴の空いたバケツのごとく、稼いでは使い、稼いでは使う人の多いこと。また自分で自分を認めていなくて、他人から承認を得続けて生きながらえるような人。SNSを派手にやる人にはこういう人種が多いわけだけど、結局それって、2000万稼いで飲み会で1000万使ってるようなもんで、実際に手元に残ってる、あるいはプールされる、シェアされるエネルギーって多くはないんだよね。
結論、
相場を何と紐付けるかだと思う。相場ってのは人の捉え方によっていかようにでもなる。
だけど、その、相場で生き残るというエネルギーも努力も、自分だけで手に入れたとはゆめゆめ思ってはならない。
俺すげー。私スゲー。とか、誰かのために働いている人のことをバカにしてはならんし、「秘訣あるんでしょ?教えてよ。どうしたら稼げる様になる?」とか言ってくるような人間にも、サラッと交わすくらいでいい。「お前じゃあ自分と同じ給料稼ぐ弁護士とか心臓外科医に同じこと言えんの?イチローには?どうしたら野球うまくなりますかってきくかね?」とかは言わないほうがいい。
たぶんね、相場から教えてもらうことってのはたくさんある。覚悟を決めたら見えるものもたくさんある。やりたいって人にヒントを上げることもできるし、身近な人をお金の力でありがたくも助けたり、喜ばせたりすることもできる。しかしお金ってのは使い方次第なんだ。ワイルドカードだ。手段に過ぎない。何を書きたいかは人それぞれなんだ。
人生も同じだ。お金と一緒で、その意味をどうしたいかは人それぞれ。
まぁそんなわけで、人に還元するように生きたいと。
思ってるわけです。一枚の葉っぱに過ぎないけどね。