その見立て、全て合っていて、全て間違い
ということをよく考えています。どういうことかというと、
そう思ってINする人はいるでしょうし、
そう思ってINしない人もいるでしょう。
ということである。
いってみれば全てのミクロすぎて認識できない投資行動のすべては、紙テープを張り合わせるのりしろが無限に連続し、多次元空間でつながっているようなもので、つなぎ合わされるための存在がつなぎ合わせ、つないだ存在が次につなぎ合わされるという連鎖。
全てを考え尽くすことはできないけれど、チャートの成り立ちを考えることで、チャートという自然に近づくことができるのではないか、ということで、それはつまり「一喜一憂しない状態のために、一喜一憂経験を先にしておく」という超越的な視点をどうやって手に入れるのだろうか、という問に置き換えることができる。
エントリーとアウトエントリーは別個に考える
エントリーはエントリーで「美味しい反転しそうなエントリー箇所を考える」のと「アウトエントリーは、これ以上伸びないであろう箇所を考える」というアプローチが、実際にやってしまいそうなミスである。
ココにかけている視点は「果たして波という物体を距離や直線で切り取った理論が、波に通じるのだろうか?」という観点であり、それこそ、微分された低次元の世界に生活している人間の欲であり、相場がエサとする思考なのではないか、ということである。
一緒に考えるから「相場はこうやって上昇/下降」するだろうという「時間軸」に対する余計な予想を加えてしまう.
時間軸に対する予測は、それが外れたケースの中には、そレを踏まえて上がるケースと、そうではないケースがあるわけで、大抵の場合「人間さまにも分かる、そろそろ上がりそうな局面」というのは、期待値としては、もしくは「未決済状態の建玉」としては相場に織り込まれているのではないか、というのがその根拠である。
地震は忘れた頃にやってくる、というのは、地震それ自体はプレートの圧力開放という図式だが、地震の存在を考えたときに、積み上げてみたものの破壊、といった役割が実はあるのではないか、と思うからである。
不幸を避けたいと願う人が不幸を呼び寄せるように、またその逆も然りで、人にはそれぞれ「それが必要な人と、タイミング」がある。これは人の認識を越えたタイミングで起こるものであり、ふとした瞬間に隙間を塗ったように起こるものだと思う。
それを人は運命と読んだり必然と呼ぶけど、なんのことはない、見えない世界の力学的な話だ。だからチャートに向き合っているときは、自分を越えた自己存在をそれを通じて見えるような気がして、単なる楽して稼げる、というものではない、超越した何かの存在を感じながら、色々と作業をやっている。
だから人間的に「波を直線で繋ぐ」ことは難しい。波の抽象度を上げていけば、マクロな動きとして認識できるパターンがあるけど、底にたどり着くに至っては「人間が想像し得ない、想像を裏切るパターンによって相場が成長していくから」だ。
上下が1/2で出る、コイントスのようなケースを考えたとき、自分のシナリオが上の3連続だったらどうでしょうか。もっと簡単な例でいえば、1〜9の数字が書かれた箱から、4,5,6の組み合わせがほしいとする。最初に4が出てこなければ失望する、という人はいないだろう。5,6,4の順番で出てもOKである。ところがどっこい、相場では、予測に反した動きをすると動揺し、全てが間違っていたのではないか、と思い始める。
心の弱さから、絶望を突きつけられて損失を確定してしまう。獲得金額については、期待値よりもワンチャンスの希望に生きてしまう。数々の実験で実証されてきた行動経済学の矛盾が、FXにはあるのだと思う。
よく見ているハイレバFX億トレーダーさんの動画にキャプションをつけてみた。https://www.youtube.com/channel/UCsyzKL2_be8U8ns5gfr1y5Q
もちろん正解はありませんので、どういうように見てもOKです。こうした「ストーリー」を紡ぐことで、チャートは立体的に見えます。
自分がしそうなエントリーも、しなさそうなエントリーについても「こういう見方があるのではないか?」と引き出しを増やすことで、自分がどの立場で立ち回るのがよいかが見えてくると思うわけです。
超越的な相場は「自然」
相場という自然は怖い。明日はないかもしれない。
自分がいなくなっても、明日は太陽が昇る。
しかし、明日を生きられないのでは、という危機感こそが、狩猟から農耕へと、星占いから科学的アプローチへと人類を進化させてきた。
その大きなプロセスの中では、個々人が個々人の実力において「生き抜こう」とする自然があるのもまた然りではあるが、人の犠牲なくしては、次の世代は生き抜けない。
なんか原始時代みたいだな、と思いながら、金融市場の発展とそれとの向き合い方を通じて、人類が次のステップに上がっていく、その一部をまた切り取って、自分なりのポジションと、来たるべき暗くておだやかな決裁に向きあって行きたいと思う。