楽しい投資
趣味はお金を使って時間をかけて、お金にこだわらずに楽しむものだ。心の充実を図るものだ。
仕事は、何かを何かに変換し、何かにおいて価値を出すもの。価値基準は自分以外の世界である。
If investing is entertaining, if you’re having fun, you’re probably not making any money. Good investing is boring.(投資がエンターテイメントになっているなら、投資を楽しんでやっているとしたら、おそらくあなたは儲かっていないだろう。良い投資とは、退屈なものだ。)
-George Soros(ジョージ・ソロス)
投資は楽しいか。それとも退屈か。
楽しい投資は「お遊びの趣味」退屈な投資は「投資家としての実業」
- 値動きをみて一喜一憂する投資は楽しい
- 指値で自動的に決済となる投資はつまらない
- 途中でルールや視点を変えながら「やっぱりこうだ」「やっぱりああだ」と騒ぐ投資は楽しい
- 一貫して同じルールで「いつも通りやる」投資は平凡だ
- 儲かったら人に見せたい。人と相談したり人の意見を聞いて、井戸端会議でトレード先を決めたい!よかったら一緒に喜び、損したら傷をなめたい。「スゴい!」と言われたら楽しいものだ
- 儲かっても当たり前だし、経費になる損切りも当たり前。事業をやっているのだから利益は出て当然で、自慢するものなどない。元になる相場観は自身の経験から養われたものであり、ルールを解凍することのできる暗号鍵は自分の経験値の中にある。なので共有したところでできない。孤独なもの。
- 値が膨らんでいるとき、膨らんでいる値を見て「どんどん上がれ」と思う楽しいトレード
- 値が減ろうが膨らもうが、チャートの形に対応して決済する。上がった値は下がるし、下がった値は上がる。その一部を切り取っているだけの、感情とは切り離された退屈なトレード
- 値が下がってマイナス表示になったらつまらないので、損はすぐ切ってしまうか忘れてしまおう。
- 値が下がっても上がっても、見るのはチャートの形だけ。否定されたら切るのみ。想定の動きをしているうちは持って追いかけていく。下がる想定も上がる想定も両方イメージ出来ているので「今回はそっちですか」と思うだけ。また次の機会を待つ。
- 「まさか!なんでそうなったの!?」とスリルのあるトレードの方が楽しい。
- 「まぁ(そうなる)でしょうね」と思うトレードこそ退屈であり理想のトレード。
- 値動きが激しいときにエントリーしたい。すぐに結果が出るから楽しい。値動きが乏しくなったらつまらないから切った方がよい。値が動き出したらその方向に乗るとワクワクして楽しい。
- 値動きの乏しいときも含めて相場。仕込むときは仕込むし、動くまで待つなら待つ。相場は行くところまでいって迷って爆発してを繰り返すだけで、小さな値動きを見つめる意味は全くない。チャートを眺めるのも退屈なものだ
- 値動きがわからないときは、どっちでも良いから理由をつけてエントリーしてみよう。プラスになったらラッキーだし、マイナスになっても…マイナスにならんだろう!ドキドキワクワクが楽しいんだ
- 値動きが分からないとき、期待は非常に低く、そもそも追うべき流れが今「ない」状態なので投資のしようがない。いざ相場を追う時の障壁になるのでただ待つのみ。何もしない。値が動いても、来るべきところに来るまでは動かない。飯を食い、それこそ趣味に興じる。遊ぶ。食う。非常に退屈である。
どうだろうか。
前者の楽しんでいる投資家は
「どんなときでも無理やりエントリーチャンスをこじつけ、エントリーしてみて、値動きに一喜一憂し、含み益がスムーズに増えたらニマニマし、減りだしたら慌てて決済し、すぐに損になったら切って、あるいはいつまでも持って、意図しない値動きに価値を感じ、自分の心がスリリングであることに喜び、人の意見で自分の意見を変え、人に褒められないと失望し、人と傷を舐め合う」という人である。
後者の退屈な投資家は
「自分の意志、気分、感情、ぱっと浮かんだアイディアを忌み嫌い、既に自分でやるべきトレード、待つべき相場がわかっており、値がいかに動こうが、チャートの事実のみをもとにトレードを行い、根拠が薄い、方向性がないときにはただ息を潜めて相場を忘れ、自身というよりも諦めに近い、「当然のように伸びる値動きに乗せる」ことを行い、「そうならない」パターンへも均等に注意を払い、その場合のリスクが最小になる局面をただじっと待ち、そのときが来れば集中治療室のように迅速に淡々と行動し、するべき行動を正確にとる。人に褒められるとも、人を褒めるでもなく、自分の道、自分の視点をぶらすことなく、設定した値まで待ち、設定した値となったらパッタリといなくなる。極めて淡白で、面白みのなく、波のないおだやかな人である」といえる。
ちなみに、この話は、人間を変換装置として考えてみたときにわかりやすい。
より抽象度を上げる。エネルギーの話
お金はエネルギーであり、感情もエネルギー
数あるエネルギーのうちの1つだ。
エネルギーの1つに、位置エネルギーがある。水が上から下へ流れること。
人間は食べモノからカロリーを得て、活動している。発熱し、考え、動くことにエネルギーを使う。このとき出る熱もまたエネルギーだ。
エネルギーとは何かといったら、場におけるエントロピーであるとも言えるし、情報であるともいえる。知識も、人のつながりも、自分が住んでいる家も、使っているスマホの待受画面もそうだ。1つ1つにエネルギーがある。そういったエネルギーの1つがお金であり、人の感情もまたエネルギーである。(電気、磁力、重力、このあたりのエネルギーの関係は、まだ解明されてない部分が多分にあると僕は思う。追えている現象について、公式があったり計算式が立てられる分野もあるけど、そもそも、エネルギーの全体像がどうなっていて、光や時間とは何なのか?ということを僕らは解明できていない)
あなたが濃縮した時間、培った実践経験のバックグラウンド、試行錯誤、その全てがエネルギーである。それを何に変えますか?どんな割合で変えますか?
という話である。つまり、自分の持っているエネルギーを「感情」に変えるか「お金に変える」か、どっちなんだい?という話。それがジョージ・ソロスが言った「楽しむ投資家はアマチュア、投資とは退屈であるべきだ」という話の裏事情っちゃ裏事情。